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2024.11.15

アーティスト紹介

golden アーティストインタビュー vol.7 小松 孝英

アートフェア東京にて、数ある作品の中から美しい蝶が乱舞する作品に目がとまった。金色の金箔地の背景を背に、軽やかに、空気をつかむように舞うその自然な姿に魅せられた。装飾画の蝶ではなく、生き物としての蝶の姿がそこにあった。

琳派の作風をもとにしたその作品は、小手先の技術のみで描かれたものではなく、かなり入念な観察をもとに描かれたであろうことがすぐにわかった。

やはり就職氷河期世代。そんな時代をものともせずに、路上での作品販売から始めて頭角を現し、世界で活躍するアーティストになった。

「究極の自己満足を社会に投げかけるのがアートだから・・・。」

生き生きと語る小松氏の、そのバイタリティ溢れるアーティストとしてのステージは、絵画のみに収まらず、映画の世界にまで及んでいる。

アーティスト、小松孝英氏の素顔に迫りたい。

帰化混成蝶舞図/golden acrylic,gold leaf on canvas/M80

蝶蛾舞図/golden acrylic,metallic leaf on canvas/M50

 

Q:小松さんの作品と言えば、琳派の作品を現代に再現したような美しい作品ですが、この作風はいつごろから、どのようなことがきっかけで描かれてきたのでしょうか?

A:20代の半ばから海外のアートフェアに出す機会をいただき始めて、最初はただ漠然と自分の好きな昆虫や蝶を描いていたのですが、海外で作品を出していくうちに、日本人の作品だと一目で分かってもらいたくて、そこからいろいろ勉強して琳派の手法を取り入れました。

Q:初期のころから描かれている美しい蝶についてお伺いします。蝶を描かれる理由をお教えいただけますか?

A:父が蝶の生態写真を撮っていて、写真集を出したり、最近はカメムシの図鑑を出したりしたのですけど、子供の頃からその現場に連れていかれたりして昆虫採集が好きでした。家の中にある植木鉢は全部蝶の食草、そしてそれに蝶の幼虫がついていて、それがやがて蛹になって孵るのを見たり、家のなかも蝶が飛び回っていたので、それが身近なものだったという経験から蝶を描くようになりました。

Q:リアルに飛び回る蝶を見事に表現されていますが、制作にあたって蝶を観察するなどの工夫をされているのですか?

A:僕、宮崎に住んでいますので、もちろん蝶の観察はし放題、昆虫採集もし放題。捕まえてきて飼育をしたりして、今も家にオオムラサキがいます。蝶を知らない人が描く蝶のように、図鑑の標本写真を斜めにしたりして、ここに蝶を描いておけばいいやぐらいで描くのが嫌なのです。蝶が好きだから。だから子供のころから見てきた蝶の動きとか情景を意識して描いています。

Q:じゃあ、もう頭の中に蝶の動きというものが染みついているのですね。

A:そうですね。あと、蝶というのはすごく弱い小さい存在なので主役になれない。だから、さっきも言ったように、ここに蝶を描いておけばいいかくらいの脇役にはもってこいの存在なのですけれど、主役になれないものを主役に押し出す力を見せたいというのもあって、蝶を主役に描いています。

Q:小松さんの作品は日本画の琳派を感じさせる作品ですが、ご使用になっている絵具はゴールデンアクリリックスなどのアクリル絵具と伺いました。日本画の画材ではなくゴールデンのアクリル絵具をご使用になる理由を伺えますか?

A:もともと海外での展示が多くて、東南アジアに行くと湿度ムンムン。そしてヨーロッパに行くと湿度カラカラ。世界中いろんなところの環境に作品を合わせていくときに、絵具の品質の心配もあります。もちろんゴールデンアクリリックスが使いやすいということもあるのですが、一番は強度ですね。現場で作品をぶつけたり、海外に持っていくと色々なことも起きますので、やはり強度が一番大事なところです。

ゴールデンは伸びやかさとか、筆の載せ方、細いラインの引き方。パレットから筆に直接絵具をのせて持ってきて、画面の上で細かく絵具を伸ばせるとか、他の絵具でもできるのでしょうけれど、僕のやり方には一番マッチしています。

Q作品の技法について、金箔地の背景や盛上げについて、どのように制作されているか差し支えない程度にお教えいただけますか?

A:まあまあ、企業秘密が多くて(笑)

古い琳派の作品は、長い年月をかけて金箔や銀箔の良い味が出ているのですよ。汚れたり、酸化して色が変わったり。でも、今の作家が金箔・銀箔を使って描いた作品は、キンキラで綺麗じゃないですか。でも僕のは味があるでしょ、そこが企業秘密なのですが(笑)。

皆がやっていないことを琳派の技法に新しく取り入れました。そして絵具もゴールデンアクリリックスという現代の絵具を使って、現代の琳派を意識しています。

Q:最初から渋味が出るようにわざとしているのですね。

A:ハイ。やり方を言うとみんなやりだすからなあ、言えないなあ(笑)

うなぎ/golden acrylic,silver leaf on canvas/S4

水面静寂図/golden acrylic,metallic leaf on canvas/M20

 

Q:小松さんはとても美しい蝶の作品で知られたアーティストですが、同時にドキュメンタリーの映画監督として塩月桃甫や中村地平についての映画を制作されています。

絵描きになるのもなかなか難しい道のりですが、映画監督も簡単になれる職業ではないと思います。学校をご卒業されてからどのようにしてアーティストや映画監督になることができたのですか?

映画作品情報リンク  塩月桃甫   中村地平

 

A:まず、アーティストなのですけれど、僕は1979年生まれ。小学校6年間はバブルの時代でした。どこに行っても日本は世界で一番。この国は平和で世界一で、良い大学に入って、良い企業に入れば良い生活ができると言われて育ってきたのです。それがですね、新卒で九州デザイナー学院を出たときは就職氷河期で。日本は世界でほんとに一番なのかなと、なんか全然違うぞ大人になったら、ということになっていて。

ということで僕は社会経験をせずに、いきなり起業をすることになったのです。学校を出て就職先が無いものですから、そのままバイトをしても無駄な時間が過ぎるだけだと思ったので、作家活動はそこからスタートです。もちろん路上で絵を並べたり、画廊に絵を持ち込みに回ったりのスタートだったのですけれど。その分、気合が入っていたというか、命かけてやっているのが伝わったのか分からないのですが、割と早くから食べられるようになって。20代の時からギャラリーが付いたり、スポンサーが付いたり、海外のアートフェアに出させてもらったり、もちろん自分で海外にホームステイに行って作品を売り込みにも回ったり、SNSの力を使わせてもらって、当時2000年代からインターネットがすごかったので、今までとのやり方がガラッと変わる最初の世代だったのかな。

普通は公募展に出したりして頑張っていくけど、ボタン一つで世界中の人に作品を見てもらえる時代に代わっていたのですよ、2000年代は。それを駆使するとどんどんチャンスをつかめるし、どんどん仕事くるし、どんどん展覧会の出番が回ってくるし、運も良かったですよね。アーティストになるのはわりと難しくない時代にいた。今は逆に情報量が多すぎるけど、2000年代は丁度よかったのですよ。みんながみんなインターネットやっているわけではなかったから、やっている人同士の絆が深かったから、簡単につながれましたね、世界と。今は情報量が多いし、詐欺とかサクラが多いから。今とは違いましたね2000年代は。すごくやりやすかった。それで調子に乗っていたらリーマンショックが来たのですよ(笑)。

でも、そのあと復活してまたいろんなことがあって、上海ショックがあったり震災があったり色々あったから、僕ら世代で生き残っている人は何があっても大丈夫ですよね。

Q:公募展に出そうとは思わなかったのですか?

A:そうですね、だって一部の人に左右されるでしょ、数人の審査員に。アートってそう言うものじゃないし。やっぱり新たな価値観を創造して、より多くの人の心をつかんだ人の勝ちだと思うのですよ。公募展とかはちょっと違うかなあ。同時に人の作品の良し悪しも言えないです。国が変われば価値観も変わるし、世界は広いので。

ドキュメンタリー映画監督になった経緯は、もともと絵画では人間の記憶だったり、時間の経過というものを表すのが難しいのですが、映画だったら音楽や、映像を使って表せるというのは前から分かっていて、いつか映像作品をやってみたいと漠然と思っていました。私はここ10年くらい台湾のアートフェアに出品しているのですが、台湾で日本統治時代の展覧会がありまして、その中で最初に台湾に西洋美術を取り込んで、台湾美術展覧会をつくった人が宮崎県出身の画家だったということを知りました。調べていくと、自分と同じ宮崎県出身の人が100年前に台湾に来て頑張っていたこととか、その人の作品のテーマであったり、描いていく意味というのを知りました。台湾では高校の教科書に載っているくらいの人ですが、日本人は誰も知らないような感じだったので、これはちょっと僕が知らしめてやらないとだめなのかなと思い、そこから映画制作を始めました。始めてみると結構絵画制作と似ていて、絵具や画材の何かが、映画だとカメラマンだったり編集マンだったり、音楽の人だったり、なんか似ていたのですよ。

コンセプトとストーリーを作って、究極の自己満足を社会に投げかけるのがアーティストだから。その価値観でドキュメンタリー映画を制作させていただいて、思いのほか評判が良くて、台湾でも上映されたり、台湾の映画祭に招待出品されたり、Amazonのプライムビデオでも見れたり。伝えていく方法というのですかね。絵も映画でもアーティストの作品としては変わりがないので、そういう感じで続けて行ったら、たまたまドキュメンタリー映画監督と言われるようになりました。

Q:でも、最初は監督をするにあたって何か勉強をされたと思うのですが?

A:いやあ、そんなには・・・。でも、こういうのが作りたいというのが最初にあったので、自分なりの勉強はしました。しかし、一番難しいのはやはりスポンサー集めですね。自分でやるので、そこまで。結構お金がかかるので何十社と集めてきたりしましたね。

やはり作家活動も20年以上になるので、毎日絵を描いていても飽きるのですよ (笑)

だから、映画作りや脚本作りの経験が入ってきて、絵がまた良くなるというか。今ちょうどいいですね、忙しいですけれど。色々な事が新たに経験として入ってきて、またそれが生かされて絵が良くなるというか。

Qこれからの作家活動について伺えますでしょうか?

A:40代のうちは思いっきり絵描き。絵の方は毎月のように国際アートフェアに出させていただいて、個展もギャラリーと一緒に定期的にやっていますけど、映画の方はですね、僕が追いかけている時代は戦前、ちょうど100年くらい前のことをやっていて、当時関わった方たちが90代でまだ生きていらっしゃる。そのインタビューを早く撮っていかないといけないという思いもある。40代も残りあと5~6年ですけれど、アーティストとドキュメンタリー映画監督の二刀流で無理ができるうちに突っ走って、ドキュメンタリー映画にしろ、絵にしろ、今の時代に自分にしかできない作品を残す。新たな価値観の創造をしていくというのが、自分が一番やっていきたいことで、もし、自分以外にもできることや作品だったら、『どうぞ、どうぞ』なんですよ。自分にしかできないことをやろうということですね。

Q小松さんにとって、アートとは何ですか?

A:『新たな価値観の創造』です。僕が撮った映画の主人公達も忘れられかけてる存在でした。でも自分が作品にすることで、新たな価値が生まれたり、人やモノやお金が動く。絵も同じで、何もしなかったらゼロですが、ゼロから絵を描いたり、そこにまた、自分のコンセプトやテーマ、時代背景を入れて活動していくことで『新たな価値観の創造』が生まれてくる。そういうことがアートではないですかね。

小松 孝英   Takahide Komatsu (美術家)

 

1979年宮崎県出身のアーティスト。九州デザイナー学院卒。香港やスイス、台湾など世界10カ国で個展開催や国際アートフェアに出品している。企業とのコラボレーション作品や国連施設、海外企業に作品コレクション多数。近年では「塩月桃甫」や「中村地平」などのドキュメンタリー映画の脚本.監督を務め、再評価や文化交流に導いている。飫肥重要伝統的建造物群で行われる「DENKEN WEEK」など地域プロデューサーも務める。延岡市観光大使。

 

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